~釣りの名手に学ぶこと~ “狩野川の巨星”落つ!『植田正光先生・追悼鮎釣り会』に参加して

『釣りビジョン』に入社、番組制作に携わって20余年が過ぎた。釣り界の現場で働く中、人生で避けて通れないのが「別れ」。昨年(2021年)11月、現在のアユ釣り界を牽引してきた名人の一人、植田正光さんがお亡くなりになった。狩野川をこよなく愛した故人は歯科医師であり、『狩野川漁業協同組合』の元組合長でもあった。

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  • 静岡県 狩野川

アユ釣り最盛期の狩野川で、故人を偲ぶ釣り会に参加

今年7月、狩野川で「植田正光先生 追悼鮎釣り会」が開催された。コロナ禍ということもあり少人数での催行。『嵯峨沢オトリ店』前の瀬で、植田先生を偲びながら、最盛期を迎えようとしている狩野川での釣りを楽しんだ。
当日の狩野川の状況は芳しくなく、皆さんの釣果は厳しいものだった。しかし、釣りというのは釣果だけに非ず、「人との出会い」もまた、釣りの魅力であると再認識する場となった。
冒頭の写真は、今回の会場でもある植田先生が大好きだった瀬。ここで先生は何匹のアユを掛けたのだろう?そんな思いを抱いた。
「故人を偲び、思い出すことが供養になる」と言われる。公私ともに、植田先生にお世話になった。私の経験を通して皆様に植田正光先生を知って頂きたい、そして、この仕事をしている上で、皆様にお伝えする責任があるとも思っている。何より私は、植田先生の訃報に際し、青春時代の自分の思い出が蘇り、自らの原点に立ち帰ることが出来た。この仕事をしているのは、これから書き綴ることへの恩返しでもある。

会場には、生前の先生を偲ぶ写真が並べられ、参加者は思い出に浸った

植田先生はじめ名手たちに薫陶を受けた学生時代を追憶

私と植田先生との出会いは、もう四半世紀も前のこと。当時、私は高校生。地元広島でアユ釣りに勤しみ、学校の先生を口説いてトーナメントの全国大会は公休扱い。とあるジュニアの全国大会が狩野川で開催され、そこで植田先生と出会った。
「狩野川」と言えば、高校生の私にとっての大いなる憧れ。川の魅力もさることながら、植田先生をはじめ、井川弘仁さん(故人)、高松重春さんなど、雑誌やテレビで活躍する名だたる名手が誕生し、腕を磨く川。「その人たちに会える」だけでも、私はワクワクしていた。
その大会の前に狩野川で少し釣りをした。それを植田先生や高松重春さんらが見ていてくれ、広島から遠路はるばる伊豆にやって来た高校生に、釣技やマナーなど熱心に教えてくれた。大会の結果はと言うと、私は惜しくも準優勝。悔しさもあったが、天下の銘川・狩野川で釣りが出来た喜び、そして名手たちに直接会えたことが、何より嬉しかった。

祭壇の下のバケツには、先生が釣った大きなウナギが生かされていた

名人の慧眼の先に釣りメディアの道を選んだ自分がいた

大会のあと、植田先生が声をかけてくれた。
「なんで最後の20分、バタバタしたの?」。
「あのまま落ち着いてやっていたら、君なら優勝出来たのに」と言われた。
試合中釣りに夢中になり過ぎて、見られていることを私は知らなかった。私は西日本で言うところの「イラチ」。それまでそこそこ掛かっていたポイントを残り20分程で見切り、それまで誰も触っていなかったエリアに目移りした。これが裏目に出て、その後数を伸ばせなかったのだ。その私の心中を見事に察していた植田先生の観察眼に、感心した。
かつての私は、自身がテレビに出る側に憧れていた。アユは勿論、チヌやタチウオの海の釣り、フライフィッシングにバスフィッシングと釣りは何でも楽しんでいた。大学で水産学や魚類学を学んだ故・西山徹さんのテレビや、佐藤成史さんの記事や写真には特に強く影響を受け、「まずは魚の勉強をしよう!」と、進学の際には迷わず水産学部を選んだ。
当時の釣り雑誌の広告に「スパーク アユ」という、オトリアユにとってのカンフル剤みたいなものがあったのをご存じの方はいるだろうか?植田さんらが出られているムック本でその広告を目にし、その開発に携わった先生がいる大学へ進学した。これもまた縁だなと、今となっては強く思う。
大学で魚を学び、釣りや漁のお手伝いを通して、地元の様々な人に出会っていく中で、「釣り自体」は勿論のこと、「釣り」と「サカナ」に没頭している<人>そのものが好きなんだという自分に気付いた。
「釣り業界で働きたい!」とは、漠然ながら思っていたが、それは釣り「具」業界ではなかった。釣りに関わる仕事を探す中で「釣りを伝える側」の存在に気が付いた。勿論、釣魚に関わる研究の道も心の内にはあるものの、当時の自分の個性と向き合った結果、メディアの道を選んだ。釣り人の「上手くなりたい」に応えることは勿論、「憧れ」を伝えることが、これまで自分がお世話になった人への恩返しになると考えた。

当日は快晴。生前の植田先生は夏空の下での笑顔が素敵な人だった
先生を慕う仲間たちが竿を出すも、増水後の白川状態。アユの掛かりは芳しくなかった

憧れの釣り人とテレビ番組で一緒に仕事をする僥倖

その後、縁あって、私は『釣りビジョン』へ入社。やがてアユの番組を任されるようになった。かつての私が「テレビで見ていた人たち」と仕事をしていくことになる。
狩野川での番組で、植田先生と番組を作った。私にとっては最大の恩返しの場。自らが釣り好き故に、こういった現場で気を付けるのは「公私」を混同しないこと。公の立場で仕事をしたが、植田先生が経営されていた旅館に宿泊した夜は、少しばかり<私>が混ざった。初対面の時は高校生だった私が、当時憧れていた釣り人と酒を酌み交わしながら人生の話をする。「あの時」のことはハッキリと覚えていただいていて、「あの頃の広島の高校生が」と植田先生も、感慨深げだったことを覚えている。
そう言った場面も少なくないのが、この仕事をしている一つの冥利。<伝えたい意思>がある若者がいれば、ぜひ釣りのメディアの仕事をお勧めするし、これも一つの<釣りのプロ>のカタチ。

植田先生と参加者の記念撮影。それぞれに、植田先生との思い出があると想像するだけで、感慨深い
あの大会のあと、お弁当を食べているときに植田先生が話しかけてくれた

釣りの魅力を伝えることが故人の遺志を継ぐこと

植田正光先生。地元の歯医者であり、旅館も営むと共に『狩野川漁協』の組合長、『静岡県内水面漁連』会長などを歴任された。とても多彩で、エネルギーにあふれた方だった。
享年74。
まだまだやりたいことも、沢山あったと思う。残された我々が、やるべきことはきれいな川を未来に繋ぎ、流域に釣り人の笑顔の華を咲かせること。植田先生をはじめ現在の釣りを切り拓いてくれた先達は、みな人を惹きつけるものを持っていた。
<釣りが持つ魅力>を多様性豊かに皆さんに伝えることが、我々の使命であると再認識。
キチンと向き合いながら仕事をしなければ。あの時のように素晴らしい観察眼で「どこか」で、見られている。

発起人の皆さん。コロナ禍において少人数とは言え開催するのはとても大変だったと思う。いつまでもこうして集まれる<釣り仲間>というのは、人生においてかけがえのない存在。そして仲間との語らいもまた、釣りの素晴らしい一面だと再認識した一日だった

施設等関連情報

※料金等は取材当時のものとなります。料金の変更等がなされている場合がございますので、詳細につきましては各施設等にお問い合わせください。

この記事を書いたライター

岡野 伸行 1977年広島市生まれ 北里大学水産学部時代には、これ以上ないほどの釣りをする毎日。卒業後2000年に釣りビジョンに入社。入社以降、鮎、フライ、磯、ルアーとジャンルを問わず番組を制作。個人としてはあらゆる釣りが一周し、現在はフライロッドを片手に南の島を巡り、人との出会いを重ねる事が楽しみであり、また子供など「初めて」の場に出会う事に喜びを感じる。

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